【ヨルガ文庫】翡翠の小鳥

「”夢買イマス”?」
そんな小さな看板がかかっている店の前に僕は今立っている。
買物がてら散歩の途中、翡翠色の小さな鳥を見かけて、その小鳥が何故か僕の周りを飛んでは離れまた現れるものだから、物好きにも追って歩いてしまい、そして気づけば六區の外れ、金糸雀通りの先の、こんな路地まで来てしまったというわけだ。狭い路地に入ったおかげで小鳥も見失い、僕の目の前にはモール硝子の嵌った小さな洋扉があるばかりである。
ついている窓は磨り硝子で、いずれも硝子越しに中を覗くことは出来ない。一体何の店だろうと、看板を探して首を巡らせたのだが、見当たった看板はこの小さな手書きの1枚、「夢買イマス」というわけの判らないものだけだった。上の方に大きめの看板が出ていることは出ているのだが、長年風雨にさらされたらしくすっかり褪色して傷み、文字を判読するのは困難だった。
「うーん…最後の文字は堂か?」
店構えからして雑貨屋か古物やか、そんな感じに見える。一応僕は昨日切れてしまった電球を買うために家を出たのだが、ここで用が足りるだろうか。
「まあ、いいか。」
足りても足りなくても。そう思って僕は店の扉を開けた。正直に言うと、夢を買うというその看板が気になってしまったのだ。

*
その店の中を覗いた瞬間、少し違和感があった。店内は照明が少ないのか薄暗く、そのくせ何か不思議に霞むような光でぼんやりと満ちていた。真珠か鉱石のような鈍い光沢、内から微かに発光しているとでもいえばいいのか、その曖昧な光のせいか少し店内は見通しにくかった。無秩序に並べられた品物のせいで見通しが悪いというのも一番の理由だとは思うのだが。

「いらっしゃいませ。」

男の声がしたのでその方向を見ると、硝子ケースの上にレジスタァがあり、その向こうに黒い眼鏡をかけた男がいた。どうやらこの店の店員、というか店主のようだ。黒い立ち襟の木綿のシャツ、ケースの影になって見えないが、下は洋穿に西洋靴であろう。店内が暗いのと、遠目のせいか年齢が読めない、年嵩にも青年のようにも見える雰囲気の持ち主だった。
ざっと見回すに、どうやらここは骨董屋のようだ。骨董というか、古道具屋という印象である。使い込まれ角のとれた柔らかい曲線、手で磨かれ鈍く円い光沢を持った優しいもの達がそこかしこに横たわって睡んでいる。
店主は客に構うでもなく、黙って本を読んでいる。職業病というやつか、つい人様の読んでいる本が気になって、店主の手元をちらと盗み見た。そのとき黒い表紙の傍らに、何か明るい色のものが見えた。店主の陰になっていてよく見えないのだが、西洋人特有の金色の髪のようだ。
不思議に思ったのと、持ち前の好奇心が手伝ってついついその存在を確認したくなった。商品を見るふりをして立ち位置を変え、店主のいるショウケースに近づく。ケース越しに覗き込んで見ると、それは確かに紛れもなく西洋人の、しかも子供だった。否、子供でも娘でもない、年の頃は十三かそのくらい、少女というのが正しいだろう。長く波打つ金色の髪を肩から背に垂らして、深い緑色の西洋服を着ている。血が通っているのか疑いたくなるような白い頬、睛はその衣服と同じ金に映える深い碧で、整った貌だちと相まってまるで磁器人形そのものだった。
店の光景とあまりに不釣合いなその美しさに気をとられ、いつの間にやら僕は少女を凝視していたらしい、少女と目が合って漸うそのことに気づいた。少女は顔をゆっくり上げると、はっきりと僕を見た。翠玉のような睛がまばたきもせずこちらを見返してくる。
そのとき、ぱさり、と小さな羽の音が耳元を掠めた。我に返ってその羽音の方を見上げると、そこには先ほど見かけた小さな青い鳥の姿があった。
「ああ、すみません、ちょっと目を離した隙に籠から離れてしまいまして。」
店主が気づいたように言うのが聴こえた。どこへ行ったのかと思っておりましたら、帰ってきたんですね、と、そう言う男の方へ首を向けると、店主は少しばかり黒眼鏡をずらして小鳥の姿を目で追っている。
「ああ、この小鳥のことですか。」
「そうです、貴方が今視ているそれのことです。」
僕は無意識に小鳥に向かって指を差し出した。僕は動物やイキモノに懐かれ易い体質らしいので、ついつい習慣で手を出してしまう。とはいえいきなり見知らぬ人間の指にとまったりすることはあるまいと、そう思った僕の予想に反して、翡翠色のその小鳥はいくつかの品物の間を渡りながら移動すると、僕の指の上にふわりと降り立った。まるで質量を感じないかのような、軽い、軽い感触だった。
「貴方、それに触れるんですね。」
「え?」
「ええ、いえ、こちらの話で。ああ、すみません、そのまま。お手数ですがそれをこの、鳥籠に。」
僕は言われるまま指にその鳥を乗せて店主の手元の鳥籠に運んだ。それは真鍮と曲げ木で繊細に細工された美しくも小さな鳥籠で、外国の寺院を模ったような尖塔がついている。ところどころに螺鈿と色硝子の細工が施され、経年の傷みはあるものの、おそらく舶来の品で、たいそうな値のものと思われた。
店主が鳥籠の扉を開けて待っているのへ、小鳥をそっと近づける。小鳥は温和しく僕の手の上から動かず、時折くちばしや長い尾で僕の指を掠めていたが、黒い硝子球のような睛で僕を見上げ、幾度か瞬きすると自ら籠の中へ戻った。
「助かりました、それは私の言うことなどきいてくれませんのでね。私は触ることも出来ませんし。」
そんな気難しい小鳥なのかと僕は鳥籠の中の小さな生き物を見る。黒い睛はこちらへ向けられて、小さな首を傾げる様は愛くるしく、とてもそんな性悪には見えない。
「翡翠<カワセミ>…小瑠璃でもないですよね、ずいぶん小さいし。でも蜂鳥だったらその翔び方はしないしなあ。」
「左様でございますね、そのいずれでもありません。お客様、博識でいらっしゃいますね。」
僕は店主の声を聞き流して鳥籠の中の小鳥を見る。雀よりひとまわりも小さな体に青い美しい羽、黒い睛の縁が僅かに紅い。小さな宝石のようだ。
「何にしてもこんな奇麗な小鳥、初めて見ました。」

「有難う。」

ふいに響いたその一言を、小鳥が喋ったのだと気づくのに僅かの時間が要った。何せ鳥の声とは思えないほど流暢で、女性と紛う美しい声音だったのだ。思わず勘違いして先ほどの金髪の少女の方を見てしまったくらいであるが、少女は先ほどと寸分違わぬ表情のままただ僕を見ていた。
「この小鳥、喋るんですか。」
僕は黒眼鏡の店主に問う。店主は眼鏡を掛けたままの目で僕の方を見ると口元だけで笑った。
「声も聴こえるんですか。いやはや、驚きました。」
僕は店主の受け答えに違和感を覚える。それは実は先ほどからずっと続いていて、なんというか、どうにも微妙に掛け違えたような受け答えに思えた。それを問う言葉を見つけられないまま口ごもっていると、店主は穏やかな声で僕に微笑みながら声をかけた。
「ところで何かお探しで?うちはご覧の通りの骨董屋…というかまあ、古道具屋と言った方が相応しいうだつの上がらぬ店ですが。」
微笑みながら、と言っても、黒眼鏡をしたままなので口元しか見えない。微笑んでいると感じたのはその声の色彩が穏やかで明るかったからだ。
「ああ、実はこの小鳥の後をついてきて、この店を見つけたんです。それで、表の看板に夢買いマスってあったでしょう。あれを見てなんとなく、こう、好奇心で入ってきてしまったんです。すみません。」
「僕、物書きでして…面白そうなものがあるとついつい。」
照れ隠しに頭をかきながらそう付け加えると、店主は二、三度首を縦に振ってそれを受けた。
「ああなるほど、物書きの先生でいらっしゃる。それで鳥にもお詳しかったのですね。お若いのに風流雅人、いずこの尊い方かと思いました。」
流暢なお世辞がつらつらとその口から出るのを聞いて、普段だったら少しばかり腹の立つようなものなのだが、不思議とこの男の口から聞くそれは不快ではなかった。とはいえ事実と異なるものはやはり虚言であるし、それをそのままにしておくのは忍びない。
「よして下さい、花街じゃああるまいし、そんな見え透いた褒め言葉。お恥ずかしい話、ご覧の通りのこの服装<なり>で、食い詰めの貧乏文士ですよ。」
左様でございましたか、ではそういうことに、と、店主はさらりと僕の言葉を受けて流した。それは手慣れた受け答えで、何十年も客商売をしていたかのような印象を与えた。この男、一見若く見える気がするのだが、もしかしたら意外に歳が上なのかもしれない。そんなことを思いながら男を見ていると、彼はこちらを向いて言った。
「けれどお客様、好奇心は猫を殺すとも申します。ユメ買イに、興味がおありですか?」

「夢買い?」

僕は思わず鸚鵡のように問い返す。我ながら先ほどの小鳥の方がよほど賢そうに聴こえるいらえだ。
「そう、ユメ買イです。噂くらい聞いたことはありませんか?ヒトの夢を買う店があると。」
ああ、そういえば。言われて僕はある編集者が持っていたカストリ雑誌の一頁を思い出した。帝都の何処かに夢を買い、そして売る男がいると。地下競売で取引されるそれはたいそうな値のつくもので、しかし買い手も売り手も謎の死を遂げることが多いとか、そんないかにもカストリ好きのしそうな眉唾物のいかがわしい記事だった気がする。
「そんな話を確か雑誌で…でもなんというか、面白半分の都市伝説のような記事だった気が。」
僕が思い出しながら独り言のように呟くと、店主は苦笑して尾ひれがついているようですねえ、と僕の台詞を受けた。
「どんな話になっているのか存じ上げませんが、そんな大したものではありませんよ。ご覧になりますか、ほら、その硝子ケースの中の。」
男はカウンター代わりの陳列台の上にさらに乗っている小さな硝子ケースを指した。客に向かう面は斜めになった造りで、二段の棚板も硝子で出来ている。その中には黒天鵞絨の上に陳列されたグラスマーブル、びいどろの玉があった。
「ビー玉…ですよね。」
僕はそう口に出しながらケースに目を近づける。小さな硝子の球は仔細に見るとひとつひとつの色柄が違い、恐ろしく繊細な手作業で造られたものと思われた。半寸もないその球の中には絹糸よりも細い螺旋が描かれて、さらに周囲を多色の線が囲んでいる。青を基調としたもの、緑と赤と交互に交わったもの、ほとんど透明な中に一筋の白が三日月のように差したもの、粗く斑になったものなど、まるでひとつひとつが完成された世界のように、どれも見ていて飽きない個性を湛えている。
「それが”ユメ”でございますよ。ヒトから抽出したユメの結晶です。」
店主があまりに普通に言うので僕はどう答えていいものか言葉が出なかった。どこまで真実なのか、それとも僕はからかわれているのだろうか。はぁ、などと冴えない生返事をして先を促してみる。
「お気に召したものがあれば、売主の写眞と署名をお見せ致しますよ。」
「そんなものまであるんですか。」
「品物がヒトのユメでございますからねえ、買い手としてはやはり気になりますでしょう。若く美しい女性<にょしょう>のものか、皺紙のような老爺のものかでは、お客様の購買意欲も値への感覚も変わって参りましょうし。通ともなりますとグラスマーブルよりも先に写眞と証紙をご覧になる方もおられるくらいで。」
その理屈も感情も道理だとは思うのだが、そもそも前提からしてこの話は与太なのではないのだろうか。僕はますます判断に困って生返事を繰り返す。店主は白手袋の指でマーブルのひとつをケースから取り出すと、天鵞絨張りのトレイの上にそれを置き、隣に1枚の少し古びた写真を置いた。美しい女性で、どこかで見たことがあるような気がしたが、気のせいだろう、きっと女優か何かに似ているのだ。
「きちんと証紙もお付けしておりますし、贋い物でないことは保証致しますよ。」
店主がにこりと笑う。どうも話が糞高い書画骨董みたいな内容になってきたので、僕は一瞬怯んだ。こういうときの自分の反応は本当に貧乏が染み付いているというか、庶民だなあと思う。だというのに僕ときたら、やはり好奇心が勝ってついつい訊ねてしまうのである。
「なんか偉い先生や職人の書画骨董陶磁器みたいな話になってるんですけど、ちなみにお値段はだいたい如何程なんですか?」
店主は左様でございますね、と僅かに空を見てから算盤を手元に引き寄せる。
「個体差が大きいので一概には言えないのですが。」
そう枕を置いてから、これなどは、とそう言って店主が示した価格を見て、僕は見開いた目が落っこちるかと思うくらいに驚いた。法外な値段だったのである。それから店主はさらにニ、三のグラスマーブルを黒い布の上に置くと、算盤を弾いてみせた。確かにその珠の位置には幅があったのだが、いずれにしても相当な額である。
「いやその、これは庶民にはとても手の出る品物じゃありませんね…。」
僕は空笑いをしながらそんな格好のつかない受け答えをする。店主は顔色ひとつ眉ひとつ変わりなく笑顔のままだ。
「お買い上げ下さるのも好事家の方が殆どのようですしね。」
年月に磨かれた珠をカシャリと鳴らして算盤を右脇に寄せると、店主は黒天鵞絨の上の硝子球にそっと白手袋の手のひらを向けた。その硝子の中に、うっすらと逆さまに店主の指先が映りこむ。
「美しいユメの結晶を枕の下に入れて眠れば、この世のものではない羽化登仙の夢が視られると仰る方もおいでになります。火にくべればさらに強い幻覚が視えるという方も、得難いほど強い恍惚と陶酔があると仰る方もおいでになります。或いはただヒトのユメを幾つも手元に飾ってご満足なさる方もおいでになります。愉しみ方は人それぞれ、様々のようでございますよ。」
白熱灯の蜜色の光を受けてグラスマーブルはその螺旋を揺らすように輝く。とりどりの色を纏う繊い糸のような線の隙間に一瞬ふわりと何かが過ぎったように見えて、僕は思わず視線を迷わせる。その瞬間、店主の眼鏡越しの視線にぶつかった。口元が微笑っている。どうやら僕は観察されていたらしい。僕は先ほどの動揺を気取られたのではないかとちょっとばかり据わりの悪い気分になって、再びグラスマーブルの方へ目を向ける。そしてよせばいいのにまた好奇心でひとつの質問を投げる。
「貴方もそれをご覧になったんですか?」
店主は今度こそ、微かではあるがはっきりと声に出して笑った。声に、というのは正しくない。ふ、と鼻先で僅かに笑みを示した。
「いいえ、私はこのグラスマーブルという物は一向に。それに店の主が自分の店の商品に手をつけてはならないというのは、どこの世界でも共通でございましょう。」
それは全くその通りである。僕は思わず芸もなく、それはその通りで、と、小噺のような相槌を打った。店主に失礼なことを訊いてしまったのではないかと思ったのだが、店主は一向意に介した風もなく、黒天鵞絨のトレイの上から左端のひとつをケースの中に戻した。
「私は他人様のユメという奴にはさして興味がございませんので。だからこの商売をやっていられるとも言えるのでしょうけれども。」
確かにその指先には商品を扱う際の細やかさは感じられるが、執着も何もないような、涼やかで体温の低い手つきと空気に思われた。ふたつ目とみっつ目のグラスマーブルを元通りに置き直し、最後のひとつを丁寧に均等に配置すると、ケースの扉を閉めた。
「とはいえ私にも時折はそのユメに興味が湧く方というのはいらっしゃいますよ。」
店主は今度はくす、と、口の先で微笑した。この男を見ていると、ほとんど声にも出さない微かな笑いのうちであるにも関わらず、人はこんなにもいろいろな微笑を使い分けられるものか、と、そんなことを思う。物書きの僕だが、この男の微笑を全て筆にして描写できるだろうかと、そう己に問えば自信は持てなかった。
「確かに安い品物ではございませんから、私どももこちらからお勧めするようなことはございませんしね。そう、でも。」
店主はそこでふと言葉を切った。少し不思議な間だった。
「買うのは難しくとも、売るのであれば、まあ何方<どなた>でもというわけには参りませんが、貴方でしたら不足はございませんでしょう。」
店主は先ほどより少しばかり柔らかい声で、お客様、と僕に呼びかけた。僕は店主の言葉の意味がいまひとつ飲み込めないまま、声につられて店主の方を見る。
「如何ですか?貴方も貴方のユメをお売りになってみませんか?貴方のユメはとても面白そうです、高値で買い取りますよ。」
ショウケースの上に両の肘をつき、顔の前で指を組んだその男は僕に向かってそんな意外な台詞を吐いた。それがあまりに今までと変わらない口調のままだったので、僕はその言葉の意味を理解するまでに少しばかり時間を食った。

―――僕の、ユメを、買う?

頭の中でその言葉を反芻して、僕はやっと店主の持ち掛けているのが商談なのだということに思い至った。しかも己のユメとやらを商品とした商談である。僕はその瞬間、魂を取引するメフィストフェレスを思い出した。
「何の…」
冗談かと声に出して笑いかけた僕は、その言葉の途中で、黒眼鏡越しの店主の視線に気圧されて声を喪った。店主は僕を見たまま、三日月の形の唇から再び言葉を紡いだ。
「”これ”もどうやら大層貴方に興味があるようだ、珍しい。」
そう言うと店主は僅かに首を自分の左横に向けた。そこにはいつの間にやら先ほどの西洋の少女が立っていて、僕の方を凝っと見ている。きらきらと照明を受けて翠玉の睛は煌き、心なしか表情にも先ほどより高揚がみえる。血の通っていないかのような真っ白な首筋と、のぼりたての月を思わせる金色の髪。少女の腕を包む深い緑の別珍と白いカフス、その先の小さな細い指がゆっくりと差し伸べられる様が僕の睛に吸い付く。

「いや、その、僕、実は切らしてしまった電球を買いに出てきたんですよ。」

気を呑まれそうになった僕は、思わずそう口走った。
そうだ、そうだった。僕は本来の目的を思い出して一気に現実に戻った。おそらく電球から自分の部屋、狭くて雑然とした畳敷きを連想したせいだろう。
「ああ、電球ですか。それでしたら勿論扱っておりますよ。」
店主は莞爾と笑ってそう言った。
骨董の電傘やら洋燈やら扱っておりますので、電球の換えくらいありませんとね。店主は気さくに続ける。そして後ろの棚の抽斗を引いて中を探し始めた。
その背中を見つめながら、僕は気取られぬようなるべく静かに胸に詰まった息を吐く。こんな薄暗い不思議な光の中で、こんな現実離れした少女に見つめられて、こんな怪しい男の話を聞いていたのでは、知らず釣り込まれていてもそれは詮方ない。詮方ないのだが、それにしたって騙され易くていけない。そう心の中で苦笑する僕に向かって、店主は振り返ると変わらぬ口調で言った。
「ヨルガ動力の型でよろしかったですか。」
中身の確認のため、店主は黄色と藍色の商標名が印刷されたその箱を開ける。先の尖った楕円の球に細い細いフィラメントが見える。僕は先ほどのグラスマーブルの螺旋を思い出していた。
店主が示した価格は通常より幾分か安かった。幾分か、と言うか、ずいぶん、というべきだろう。
「脅かしてしまったようなので、お詫びです。」
店主はにこりと微笑んでそうのたまった。やっぱり僕はからかわれていたのか。
「と、いうよりは、これをここまで連れてきてくれたお礼です。貴方のおかげで温和しく籠に戻ってくれましたし、助かりました。」
傍らの鳥籠を目で追って店主が言うのを聞きながら、それも僕の功ではない、と思ったのだが、安価で日用品が買えるのは明日をも知れぬ浮き草仕事の身としては非常に有り難かったので、黙ってその言い値で頂戴することにした。何せ夜の灯りは僕ら物書きにとっては大事な命綱なのだ。
「またお待ちしております。」
店主は隣に立つ少女の髪を軽く撫でながら言った。それにしても無口な子だ、もしかしたらこの国の言語がまだ判らないのかもしれない。とはいえ笑顔は共通だろう。僕は少女に笑いかけると少し腰をかがめて、またね、と挨拶をした。すると彼女は片膝をほんの少し折って礼の姿勢を取った。この国ではあまり見ない礼だ。顔を上げた少女は少しばかり微笑んだように見えたが、それは僕の願望が見せた錯覚なのかもしれない。表情に乏しい子ではあるが、嫌われているわけではないようだ。僕は右手首だけを彼女に向けて振った。
茶色の紙袋を指先でつまんで店を出ようと踵を返した僕は、店に入るときから気になっていたことを思い出した。

「あ、そうだご店主、この店の名は?名は、なんというのですか?」

ああ、と店主は応<いら>えて、そしてゆっくりと言った。

「シゲンドウ、と申します。」

シゲンドウ、どんな文字を書くのだろう。僕がそんなことを考えていると、店主は付け足すように言った。
「もっともそれも人がそう呼んでいるだけで、本当の名前かどうかは定かではないのですがね。まあ、名前など記号でございますから、それで事足りております。」
僕はそろそろこの店主の人を煙に巻くような、少し掛け違えたような物言いに慣れてきて、その台詞については今は深く追求しないことにした。
「シゲンドウ、ですか。有難う、また寄らせてもらいます。」
モール硝子の嵌った洋扉に、入ったときとは逆へ手を掛ける。硝子を透かす日はまだ明るい。店主が頭を下げるのが、閉まる扉の隙間へ消える。

「はい、今後ともどうぞご贔屓に。」

黒ずくめの店主の声が、ふわりと耳に残った。

*
「視える、聴こえる、触れる、か。しかもどうやら本人は当たり前にすぎて無自覚ときている。生まれつきの体質でしょうねえ、あれは。面白い御仁だ。」
店主はカウンター代わりにしている硝子ケースの上に片肘をつくと、顎に指をあててくすくすと笑った。誰かに話し掛けるかのように、店主は続ける。
「判っていてからかいに行ったんですか、それとも彼が気に入ったのかな。」
そして黒い眼鏡を少しずらして鳥籠を見遣った。そこにいた筈の小鳥の姿は見当たらない。かわりに女性がひとり、空の鳥籠を抱いて立っていた。長い黒髪を片側で束ねた若い女で、緋色の襦袢に重ねて翡翠<かわせみ>の縫い取りをした長着をゆるりと纏っている。
「貴方の本体はその籠でしょう、無闇に本体から離れたら拡散してしまいますよ。まあそれはそれでもいいんでしょうけどね、あなた方にとっては大差はないのだろうから。」
女性は何か話しているようで唇を動かしているのだが、その声は聴こえない。
「すみませんが私は耳はあまりよくないんです、目だけは並外れていいんですけどね。」
女性は少し眉を曇らせながら微笑むと、するすると縮んで先ほどの小さな翡翠色の小鳥の姿に変わった。チチ、と小さな鈴を振るような鳴き聲。

彼なら貴方の理解者<トモダチ>になれるんじゃないかと思って。

翡翠の小鳥はそう囀ったのだが、店主の耳にはそれは意味を持った響きとしては届かなかったようだ。店主は美しい歌声ですね、と鳥籠に向かって微笑すると、黒い眼鏡を掛け直した。