【ヨルガ通信】ヨルガ文庫「或る遊女の話」 WEBラジオ朗読


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朗読:みとせのりこ
音:弘田佳孝

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「或る遊女の話」

わっちの生まれた里は、海と山とに挟まれた猫の額のような狭い村で、おまけに土地の痩せた貧しい寒いくにでありんした。わっちの家はそんな村の中でもまァまた貧しくて、上に姉が一人、わっちの下には弟が二人おりんしたが、下の弟は水害による飢饉のときに死んでしまいんした。わっちがその折十にひとっつ足らなくて、父(てて)親は外へ働きに出たっきり帰らず、もう3年は経っておりんしたねえ。いちばん上の姉と母とで他家(よそ)様の仕事を手伝って、それでもらった糧で細々と家族5人、空き腹寄せ合って兎小屋のような家にしがみつくように暮らす毎日でおざりいした。
わっちは母に似たおかげでこォんな田舎くさい顔貌ですけど、姉はわっちと全然似ていなくて、ほんとに美しい人でございましてねえ…え?おまえさんが田舎くさいというなら、姉御様は天女のような人だったろうって?真にお上手でおざりいすなあ、主様は。そう、でも姉は真に、つぎあてだらけの木綿の着物を着ていても、何というのでしょうね、凛として清しい美しさのある…姉でありんすか?今?
姉はもうこの世にはありいせん。カジンハクメイ?どこのおくにの言葉でありんすか?へえ、綺麗な人は儚く早死にするもの、ねえ…さすがものかきの先生はいろんなことご存知でおざりいすなあ。でも、姉は亡くなった…というのも違うような、どう申せばいいんでしょうねえ。

そう、姉は。
水神様に嫁いだのでございますよ。

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ひどい水害の年でございました。頃は秋も終わりでしたか、空は荒れ、海波は猛り、畑にも出られぬ、猟にも出られぬ、舟で海にも出られぬ中で、山土は水を含んで崩れ、海からは波の壁が時折押し寄せる。山と海とに挟まれた痩せた貧しい小さな村、そんな日々に長く耐えられようはずがありません。人は餓え、水に土に脚をとられてずいぶん亡くなりました。
それでも一向止まぬ水の猛威に、これは水神様のお怒りかとみんな怯えましてね、それで、まァ、神様のお怒りを鎮めるために誰か遣わそうと、そういう話にね、自然なりました。誰を水神様へ遣るのかと、そういう話を大人たちがしているときに、あたしの家の前の椿の木に、時ならぬ紅い花が咲きました。それを見た大人たちは、これは水神様の与えた徴だとそう言いましてね、正直理由なんて何でもよかったんでしょうねぇ、ただうちは貧しくて里の家々に仕事もらっておこぼれで暮らしていたようなもんですから、そう言われちゃァ逆らいようもありません。うちから遣いを出すことに決まりました。

そして雨の泥濘の中、夜の足元も覚束ぬというのに、家には急ぎ村長と土地神様を祀る社の宮司がやって参りました。狭い家の上座に姉を座らせて、長に宮司、母と、日ごろならありえぬ下座から囲んで姉を見上げております。
最早一刻の猶予もならぬ、心を決めてくれぬかと、重苦しいような、それでいて急かすような調子の声が聞こえます。おまえの母や妹弟のことは、末まで村で助けてゆくで心配するでない、とそのように村長が申しますのを、あたしは土間の戸口の筵の陰で息を潜め、そっと聞き耳立てておりました。

実はその折、姉には不釣合いな縁談が持ち込まれておりました。母と姉ふたりしてよく届け物をしておりました隣里の富裕な家から、姉を迎えたいと言われていたのでございます。縁談といっても内々のもの、要するに姉は妾に望まれたのでございますよ。相手は五十に手の届く歳の男でございましたが、母はそれでもこの貧しい里で暮らすよりは、ましてや生贄になるよりはと思ったのでございましょう、姉に必死に縁談の方を勧めたのでございますが、姉は何故か杳として首を縦には振りませんでした。

大人三人下座に置いて、脚を正したまま姉は黙って端座しておりましたが、大人たちの話が途切れると一間を空けて口を開きました。
「富裕な里の資産ある家、その殿方に嫁ぐといっても、それは結局身売りをせよと言うのでございましょう。その家その里の富、そして人の情など、我が身でいつまで購えるものか、末の量れぬ不確かなものでございます。」
「ならばわたしは今この里に威をもて居わす水神様の元へ嫁ぎとうございます。同じ身を売るならばヒトよりも、神にこの身を捧げましょう。その方が村のためにも、親妹弟のためにもなるのではありますまいか。」
姉は水鏡のような声でそう言うと、両の指を膝の前に揃え、静かに頭を垂れました。

「わたくしを、どうぞ水神様の元へお遣りになって下さいまし。」

よう言うてくれたと、村長の爺は感じ入った様子でそう言って、傍らの母にまこと孝行な娘ぞと大きく声をかけました。母はただ俯いて姉の前に手をつき深く、深く頭を下げました。筵の陰から盗み視た母のその肩は震えていましたが、姉は毅然と顔を上げたまま、何を視ているものか全くわかりませんでした。村長を送り出しに母が立ち、姉もそれに続き、あたしは慌てて戸口から退きました。とはいっても小さな小屋、退いたところで他のどこへゆくような部屋もありません。母はただ顔を伏せ息を詰めて長の背に続いておりましたが、姉だけは戸口の横で所在無く佇んでいるあたしに気づきました。姉はあたしをみとめると、あたしの方へ手を伸ばし、笑いかけるようなそぶりをみせました。
「--ちゃん、堪忍ね。」
笑うでもなく泣くでもなく形容のし難い顔をして、そう言いながら姉があたしの髪を撫でたときの、その黒い目の不思議な光を、あたしは生涯忘れることは出来ないでしょう。

そうと決まれば支度は鞠の石段を転がるように進んでゆきました。あまりの手速さにあたしは右往左往するばかり、姉は多くの人に取り囲まれて、我が家の者は蚊帳の外に置かれたように少し離れてそれを見ているしかありませんでした。
あたしは愈々姉が禊に、着替えに向かうと家を発つ段になってもどう声を掛けていいかわからず、おろおろと後ろをついて歩き出しましたが、ふと見遣った窓の外、目についたただ一輪の紅い花、思わずその木の元へ雨の中走り寄り、細い枝を手折ると、姉の背を追ってそれを差し出しました。姉は振り返ってずぶ濡れのあたしの手からその花枝を受け取ると、黙ってにこりと微笑みました。
それが間近で見た姉の最後の顔でございました。

*
そうやってあたしの姉は、十と五つで白絹の花嫁衣裳に包まれ、瑠璃翡翠で飾り立てられた小さな舟に乗せられて、水に流されていきました。あれほど荒れ狂って里を悩ませた荒天が、姉の祝言の夜だけは嘘のように凪いで、夜空にはまるで天人の宝珠の箱を覆したような、満天の星が煌いておりました。水辺に点した篝火の間を縫って、宮司に手をとられ、筵の道を小さな舟まで歩む姉の姿を、あたしは今でも今日のことのように思い出せます。

それはそれは美しい、この世のものとは思われぬ程美しい花嫁姿でございました。この里のどこにこのような贅沢な衣があったものか、真新しい綸子の紋意匠に紅絹裏つけた三尺の長い長い袖振りからは、やはり絹の襦袢が零れておりました。帯の胸元に差した懐剣には白と赤の長い房が揺れ、ふき綿も豊かな重い裾引いて、淡く紅を刷いた白皙の貌に黒髪結った、あたしの姉はまるで水晶か真珠<しらたま>の雫のように、恐ろしいほど静謐に佇んでおりました。嗚呼もう姉はヒトではなくて水神様の伴侶、神の眷属なのだと、あたしは幼い心に遠く誇らしく、そして淋しく姉を感じたのでございました。

けれどどんなに飾り立てても所詮は捨小舟。死出の道行きでございます。
あたしはその舟の、煌びやかなる珠の光、花を模った燈籠の灯りの最後のひとつが遠く波間へ消えるのを見て、初めてそのことに気づいたんでございます。周りを見れば村の人たちは、有り難い有り難いと手を合わせ感謝したその口元にその頬に、自分は難を免れた、そんな安堵を貼り付けていたのでございます。そう、母ですらも深い悲しみといたたまれぬほどの詫びの影に、そのような色をごく僅か、浮かべていたように見えました。
あたしは急に恐ろしくなって、下の弟の手を強く握りました。何にもわからない顔した弟が、「ねえちゃん、いつ帰ってくるの」とあたしに問うのを聴きまして、あたしは子供心に涙を流さぬよう必死で堪えながら、ただ弟の頭を撫でたのでございました。

*
まァ、そんなこともありんしてね。
いろんなことが厭になって、わっちは自分でここへ売られてきたんでおざります。

母は翌年体を壊して帰らぬ人になっちまって、あたしと弟は村を救った生き神様の身内ということで無碍にもできなかったんでしょう、村の家に交代で世話になって育ててもらってはおりんしたけど、なんとも肩身の狭いものでおざりいした。
弟には画の才能が見えんしたので、絵の師匠の元へ弟子入りさせようと思いましてね、それには何かと物要りでおざりましょう、それで。
ここ、吉原に。

ああ、せいせいしいした。わっちにはしょっぱい里の暮らしより、ここ帝都の、花街の暮らしが肌にあっておりんす。同じ籠なら自分の選んだ籠の方が、居心地がいいというものでおざりましょう。

え?
何故そのときわっちが選ばれなかったか?
それはそのときわっちがまだ娘ではなく、子供だったからでありんすよ。
水神様もそんなことで選好みなさるあたり、男のおひとでおざりぃすなあ。

あら、その通りだと仰せになる。主様はずいぶん正直なお方でありんすなあ。
さあさ、話ばかりも野暮というものでおざりましょう。まずはゆるりと一服しなんして。
今度会ったら続きを聞かせて欲しいと? ふふ、さァて、今度話すときァ弟が妹になったり、お里が南のくにになったりするかもしれませんえ。

その話も是非聞きたい?
真に変わったお客さんだこと。主様は人好しでありんすなあ。…でも。

「わっちはそういうお方が、大好きでありんすよ。」