【ヨルガ文庫】兄様の指輪

1

薄曇の空からしんしんと雪が降りがはじめました。
兄様と遠い昔に過ごしたこの小さな枯園は物音ひとつなく、すべてが凍ったよう。
お元気でお過ごしなのでしょうか。
兄様とお逢いできなくなってから、もうどれくらいの時間がたったのでしょう。
私などでは読むことさえ出来ない難しい御本を何冊も束ねて荷造りしていた兄様の背中を、もう何度、思い出したかわかりません。
お手伝い、しましょうかと聞く私に、「指が傷むからいいよ」と言った兄様は、すべておひとりで荷物をおまとめになって、綿雪が降る凍える朝に、お迎えにいらしたつやつやと光る真っ黒な車に乗って、行ってしまわれましたね。
その日を境に、家の者は誰も兄様の話をしなくなりましたわ。
…はじめから娘の私しか、いなかったかのように。
残された兄様の部屋には、がらんどうの本棚や皺ひとつない寝台…もう灯りを燈す事のないランプだけ。
御姿をこんなにも鮮やかに思い出せるのに、目の前にある何もない部屋でひとり佇まねばならなかった私を、兄様はお考えになった事があるのでしょうか。
刃のように迫ってくる寂しさに耐えられず、何度も兄様の机に寄り添って、引き出しをひとつ、またひとつと開けました。
もちろん、そこにはちいさな傷も、インクの染みさえもありません。
もう此処にはいらっしゃらないのだという事実に震えながら、
兄様だけが足りないあの部屋で、おそるおそる握り締めた指輪を見つめました。

…兄様は何時、気が付かれたのでしょうか。
兄様の外套のポケットにあった指輪を私が盗んだことに。
あの日、市松模様のタイルが敷き詰められた玄関で、いつお帰りになるの、と聞いても兄様は答えてくださいませんでした。
この外套を渡してしまったら、兄様は本当に行ってしまう。
そう思いながら、兄様の外套を抱きしめて、立ちすくむしかありませんでした。
その時のことです。
何か小さな物がポケットに入っているのに気が付いたのは。
私は、思わずそっと手を入れて、兄様に気付かれないようにそれを抜き取りました。
靴紐を結び終えた兄様は、お渡しした外套を羽織り、私の額を優しく撫でると行ってしまわれた。
…手のひらに隠した指輪だけを残して。
黒い緩やかな曲線を描いた外套の裾がゆらりゆらりと揺れて、微かに積もった雪に兄様の足跡だけが残っていましたわ。
今でもどうして指輪を盗んでしまったのか、私自身、よくわかりませんの。
ただ、真っ白な雪を灰色に潰しながらやってきたあの車を見た時に、もう、兄様にお会いできないのではないかと思ったからかもしれません。

指輪には、蔦が巻きついた繊細な細工が施され、
深い碧の葉の上に乗っている雨粒ような小さな石がはまっていました。
その石は、今まで私が見たことがない程に美しく、そして儚げで…。

どうして兄様は、この指輪をお持ちだったのだろう。
そう思いながら、兄様の指輪をそっと自分の薬指にはめてみると、まるで、もう随分前から私の指の一部分だったかのよう。
不思議ですけれど、一分の余りもありません。
薬指にある兄様の指輪がきらりきらりと光る度に、兄様がお傍にいらっしゃるように感じたのは私の甘えでしょうか。
私は願いを掛けて、いつか兄様が戻られる日まで、この指輪を外さぬ事を決めました。

2

兄様の夢を見るようになったのは、その晩からのこと。
最初に見た夢は、兄様の部屋の扉を静かに叩くところから始まったのを覚えています。
奥から「入っていいよ」と兄様の声がして、私は静かに扉を開けました。
机に向かって万年筆を持つ兄様がこちらを向いて、ありがとう、と一言私に言うのです。
すると私は手に持っていた本をそっと机に置くのでした。
兄様はもう、振り返る事なく机に向かっていらっしゃいます。
後ろ髪をひかれながらも、そっと兄様の部屋を後にしようとした時、目が覚めたのです。
窓の外を見ると、まだ月が高く上っています。
私、すべてが夢だったことがあまりに悲しくて泣いてしまいましたのよ。
指輪を盗んだ罪の意識から、こんなにも鮮やかに兄様の夢を見たのだろうと最初は思いましたけれど、次の日も、その次の日も、兄様は私の夢に現れました。

そして、気が付いたのです。
兄様の指輪が夢を見せている事に。
夢から覚めると、真夜中の暗闇に、必ず薬指の上でそれは幻灯機のように切なげに光っていましたの。
躊躇いながらも兄様の指輪を唇によせると、ゆらゆらと淡く柔らかな光が私の顔を照らしているのがわかり、兄様が私のことを遠い何処かで想っていてくださっているような気がして、私はゆっくり瞳をとじましたわ。
…兄様に祈るように。

それから何度、兄様の夢を見たことでしょう。
御学友と勉学に励まれる兄様にお声をかける夢、竹刀を持つ黒い袴姿の兄様を影からそっと見守る夢、詰襟の制服を身にまとい角帽をかぶられた凛々しい兄様をお見送りする夢。
あまりに夢が鮮明なので、目が覚めて朝鳴く鳥達の声を聴いても、いつしかこれも夢なのではないかしらと思うようになりましたわ。
夢というにはあまりにも確かに、そこに兄様がいらっしゃる。
兄様にお逢いできるのが本当に嬉しくて、眠るのを心待ちにするようになりました。

ですが不思議なことに、夢の中の私はいつも人目ばかりを気にして兄様に話しかけているのです。
まるで、兄様とお話するのを誰かに禁じられているよう。
そわそわと落ち着きがありません。
兄様はそんな私をいつも気にかけて、事あるごとに私にお声をかけてくださいます。
そう…ある時は小さな紋白蝶をそっと私に見せてくださいましたね。
紋白蝶は兄様の手のひらから柔らかく飛び立つと、私のまわりをひらひらと舞いました。
振りかえると兄様が私を見つめていてくださっている…。
夢の中で、私には兄様がいると強く感じたのを覚えています。

3

でも。
忘れる事ができないあの夢。
あの夢から、何故かすべての歯車が違う方へ回ってゆきました。
兄様はいつもと同じように、私を呼び出したのです。
誰にも気がつかれないように。
兄様は色とりどりの鉱石図が描かれた本を開いて私に見せてくださいました。
隅々まで描写された鉱石がどの頁をめくっても輝いています。
ゆっくりと紙面をめくる兄様の指が優しくて、私は様々な鉱石よりも、兄様の白い爪ばかりを追っていましたわ。
湖の底のような深い碧色の鉱石を綺麗と言って見つめていると、兄様は
「…でも、碧は毒の色だ」と言うのです。
思わず私は兄様を見つめ返しました。
曇り顔をされた兄様の横顔は芙蓉のように美しく、小さく震える睫は羽化する事のない蝶の羽のよう。
現実では見せてくださった事のないお顔でした。

その時、扉の開く音がして振り返ると、母様が立っていらっしゃったのです。
見たこともないような怖いお顔をされていましたわ。
夢とわかっていても、あまりの母様の形相に私は動くことが出来ません。
母様はなにも言わずゆっくりと近づいて、そして、私の頬を叩いたのです。
叩かれた頬が熱く痛む中、驚きと悲しさで母様を見ると、「そんな目で私を見ないで頂戴。その目はあの女を思い出して吐気がするわ」と氷のような冷たい目で私に言い放ちました。

あまりの悪夢に私はどうしたらこの夢から目覚められるのだろうと思った程。
いつも私を優しく抱きしめてくださる母様が、夢の中では般若のようでした。
兄様はただ、なす術もなく、母様に連れられてそのまま部屋を出て行かれましたね。
床には先程まで兄様が見せてくださった鉱石図だけが残されて、毒の色をした鉱石が私を見つめていました。

そのまま、私はぼろぼろの皮製のトランクに、少しばかりの服を詰めて家を出るのです。
ふと壁にある小さな鏡を見ると、夢の中の私の薄い唇だけが見えました。
その唇は、「これでいいの」と声なくゆっくりと動き、硝子のように透明な涙が頬をつたいます。
重い扉を開けると、一面に雪が降り積もっていましたわ。
私はひとり振りかえる事なく、ただ、真っ直ぐに歩いてゆくのです。
目の前のすべてが白い視界だけを見つめて。

4

その悪夢の夜から、毎晩見ていた夢がふつりと途切れて、音だけがきこえる事が多くなりましたの。
見えるのは漆喰のような真っ白な壁と、音だけです。
まるであの雪景色のよう。
かつんかつんと響く様々な靴音やがらがらと何か荷台のようなものが私の耳元までやって来る音、そして…聞き覚えのある声で静かに言い争いをする大人達の話し声。
何日もその白い夢は続き、もう兄様は私の夢に現れては下さらないのかと焦りましたわ。
そして、夢の中で、何故か私は横たわったまま、人形のようにひとりでは動けなくなったのです。
窓から入ってくる風や冷たいシーツの肌触りを俄かに感じて、そこでやっと、夢の中の私は眠っているのだと気が付きました。
眠りながら眠り続ける夢を見ているという奇妙さから、どうしても抜け出したかった私は、兄様、兄様と声にならない不自由さの中、叫び続けました。
あんなにも強く兄様を求めたことはありません。

その時、懐かしい兄様のお声だけが天から降り注ぐように私に話しかけました。
久しぶりに聞くそのお声は、まるで闇に差す一条の光のよう。
私は、本当に嬉しかった。
ですが、それは初めて聞く兄様の懇願するお声だったのです。

「…帝都中を駈けずり回ってやっと見つけ出せた。巡り巡ってこんな形になっていたよ。
これさえ戻れば、意識が戻るかもしれないだろう」

兄様の体温を感じる温かい指がそっと手を握り、私の指に何かをはめたのがわかります。

「早く、一刻も早く目を覚ましておくれ。…頼むから僕を置いていかないでくれ。お願いだ」

そう言った後、小さな嗚咽が聞こえ、兄様が動く事の出来ない私の身体をきつく抱きしめるのがわかりました。

5

目が覚めたその時程、夢の中の自分に嫉妬を感じた事はありません。
大事で仕方がなかった兄様の指輪が、何か言いたげともとれるように淡く微かに光るのを見て恐ろしくなりました。
この夢は誰の夢なのでしょう。
兄様が置いていかないでくれと懇願している…全く考えつかないのです。
指輪の石が、夢で頬を流れた涙のように思えて仕方がありません。
恐怖のあまり、外さないと心に決めていた指輪をゆっくりと外しました。
すると、私の指には、消えないと思う程にくっきりと紅く痕が付いていましたの。

このままでは、指輪に…この誰かの夢に取り込まれてしまうのではないかと、その時初めて気が付いたのです。
私は外した指輪をレースのハンカチに包み、震え怯えながら夜が明けるのを待ちました。
ずっと夢が見らればいいと思っていた時は、あんなにも短く感じた闇が、この時ばかりは終わりがないように感じましたわ。
日が昇り、外が明るくなって、窓から柔らかい朝日がこぼれても、兄様の指輪は弱弱しくではありますが、まだ微かに光を放っています。
…夢は終らないのだとでも言いたげに。
朝露が消え、街の喧噪が聞こえ始める頃、私はハンカチに包んだままの兄様の指輪をおそるおそる鞄に忍ばせて家を出ました。

6

通りですれ違う人たちをよけながら兄様を想いました。
幼い時から、私を慈しんでくださった大事な兄様…
この指輪を荷物にしまわず、外套のポケットに入れていた兄様は、私のあずかり知らぬどんな秘密をお持ちだったのでしょうか。
行き着くあても無いまま、帝都中を彷徨いました。
女学校の隣の公園にある大きな噴水にこの指輪を沈めてしまおうかとも考えましたわ。
けれども、兄様の事を想うと切なくてできません。
第六区まで行き着いて、店が立ち並び様々な物が売られているざわめきの中を何時間もひとり歩きまわるばかりでした。

気が付くと、陽が翳り始めた小さな路地の奥、骨董屋の軒先に「ユメ買イマス」という看板が揺れていました。
ユメという言葉に思わずすい込まれるように扉に手をのばしてしまったのです。
薄暗い店内の硝子ケェスに、時間(とき)に愛された物たちが並び、先程までの喧噪は嘘のように静か。
奥から出てきた黒眼鏡をかけた店主は、私を見て「何かをお探しですか」と声をかけてくださいました。
…長い髪をひとつに束ね、お顔の色がまるで白磁ようだったのを覚えていますわ。
思わず私は、買い取っていただきたいものがありますの、とハンカチに包んだままの指輪を微かに震えながら渡しました。
どうしてそんなことを言ってしまったのでしょう…。
ですが、そうすることでしか、この気持ちを落ち着かせる事は出来ないと思ったのです。

店主は、「拝見させていただきますね」と包みを開くと、
「職人でしか作れない繊細な細工のお品物ですね」
と優しく落ち着いた口調で喋りました。
ですが、店主は指輪をルーペで覗き込みながら、思いもよらないことを私に問うたのです。

「お客様、証紙と写真は一緒に保管してございませんでしたか?」

言われた言葉の意味がわからず、 店主を見つめ返しました。
兄様の署名が必要なのでしょうか…。
盗んだ物とは恥ずかしくて言えずに口ごもる私に、店主は顎を触りながら、

「証紙と写真は失われてしまっている…ではお函もございませんでしょうねえ」と独り言のように呟きました。

こんなにも指輪の出所を店主に追求されるとは思いもよらなかったのです。
羞恥心に、私は口をきつく結んで立ち尽くしましたわ。

ルーペを覗き込んでいた店主は、包んであったハンカチの上に丁寧に指輪を戻しました。
やはり私は、この指輪から逃れることができないのだわ。
そう思った時でした。

「お客様、この指輪に据えてある『これ』は、証紙も写真も失われているようですが、確かに当店がお取り扱いしたもので御座います。慎ましやかな品の良いユメをお持ちですね」

と店主が私を見つめて言ったのです。
私は本当に驚いて、思わず、声を上げしまいましたわ。すると、

「ご存知なく、こちらにお持ち頂いたのですか?それは奇遇でございますね」

と店主は、ゆっくり笑って十露盤をはじきました。
ユメという言葉を反芻しながら、私は兄様の指輪をじっと見つめる事しかできません。
指輪は淡く光ることなく、何事もなかったよう。
もしかしたら、この店主なら兄様の夢をみるからくりをご存知かもしれないと、指輪のそれはなんですの?とおそるおそる尋ねました。
すると店主は、十露盤から目を外して私を見ると、信じがたいことを話し始めたのです。

「どの位前か忘れてしまいましたが、これはある少女のユメで御座います。歳は十五を超えていなかったでしょうか」
と目を細め、そして、

「そういえば、ユメをお買取させて頂いてから暫くして、探しにいらした青年の御客様もいらっしゃいましたね。
確か…妹の夢を取り戻したいのだとおっしゃいまして。すでに他のお客様にお買い上げ頂いていたものですから。
ですが、まさか指輪になっていたとは。…またご来店下さればいいのですが」と。

その時、私はきっと小さく震えたことでしょう。
やはりもう少し考えさせていただきたいの、と店主の手元にある指輪を掴み取り、早足で骨董屋から逃げ去ろうとする事しかできませんでしたわ。
これも夢であるならば、早く目が覚めてほしいと思いながら。
店の奥で「またのご来店をお待ちしております。ご縁がありますように」とぼそりと言う店主の声が聞こえました。
私のあまりに青ざめた表情を見て、きっと不思議に思われた事でしょう。

7

帰り道、かたかたと震える肩を誰にも気がつかれぬよう、俯いたままのびる影を見つめるしかなかった私を兄様は想像できるでしょうか。
この指輪を盗まなければ知りえなかったであろう兄様の秘密が私に重くのしかかってきました。
私は兄様の何を見ていたのでしょう。
あんなにお優しかった私の知っている兄様がもうあまりに遠いのです。

…日が暮れて、月が昇り始めると指輪はまた、兄様を求めるように光り始めましたわ。
あの時程、兄様の腕の中で泣きながら夢を見ずに眠りたいと思ったことはありません。
淡く光る指輪を手に取ると、まだ薄く赤い痕が残る私の薬指にゆっくりと指輪を戻しました。
もう、これ以上、私の兄様を失いたくなかったのです。

私を取り囲む闇は、蒼く、深く、そして終わりなく…。
物音ひとつしない部屋の中で、兄様の指輪の灯火がゆらゆらとした光を天井に映します。
止まらない涙を拭く事も出来ません。
冷えた頬をつたう涙が、ぽたりと兄様の指輪に落ちました。

何故か、何かに呼ばれたような気がして振り返ると、
兄様が「毒の色だ」と仰った、もうある筈のない本が開かれたまま、床に置かれていています。
あの悪夢の時と全く同じように。

…どうして兄様の御本がここにあるのでしょう。
私はまた、夢を見ているのでしょうか。
いいえ、薬指にはいつものように指輪があります。
夢から目覚めた時のように淡く輝いていますもの。
もう、夢なのか現実なのか、そんな事も私にはわからなくなってしまったのでしょうか。
迷路に迷い込んでしまったような恐ろしさに、私は一歩も動く事ができません。

開いたままの窓から入る夜風に、白いカーテンがゆれました。
窓の外を見ると、あったはずの月も星もなく、どこまでが空なのかわからない程の暗闇です。
…ただひとつ、いつのまにか降り始めた雪の白さだけが、光のように明るくて。
さす様な冷たい風に、本の頁がぱらぱらとめくれると、様々な鉱石が風にゆれました。
ふと、淡い櫻色の鉱石図が描かれた頁の間から、一枚の写真がこぼれ落ちたのです。
思わず、私は駆け寄って、その写真を拾いました。
…その写真には、幼い兄様が写っていました。
見たことのないご婦人の足元に無邪気にすがりつきながら、こちらを見つめる可愛らしい兄様…。
その兄様に向かって、言葉では言い表せない程、優しそうな笑みを浮かべるそのご婦人は、
生まれたばかりであろう赤子を大事そうに抱きしめています。
角が丸くなって、古びているセピア色の小さな写真の裏側に、子供の字で書かれた兄様の名前と…もうひとつ、名前が並んでいましたわ。
でも、それは私の名前ではありませんでしたの。

兄様、もし…、私がユメを売ったら、見つけ出してくださいますか。
帝都中を駆け巡りながら、息をきらして、探してはくださるのでしょうか。
指輪の淡い光で写真を見つめていると、ふとそんな事を思いました。
ユメでみた兄様は濁った湖の深い闇のような目をされていた。
兄様が家を出られた理由が、その眼球に秘められていましたのね。

…明日、私はこの指輪を持って参ります。
もう決めましたの。
あの薄暗い骨董屋の店内で、兄様がこの指輪を見つけられる事はあるのでしょうか。

何時の日か、私に兄様がいた事を、誰も知らなくなる日がやってくるのでしょう。
誰ひとりとして、兄様の名を呼ばず、求めず、兄様を想わなくなるのです。
はじめから存在していなかったように。

その時、兄様のことを覚えているのは、ただひとり、私だけですわ。
…兄様どうか、お元気で。

(初出 2010年10月10日 睡晶幻燈夜会 朗読作品)