薄野原の密会

帝都四区の外れも外れ、見渡すうちには高く薄芒の生い茂るばかり、遠くには暮れ方の空に沈みかけた山影の滲み、何処からか虫の聲が微かに聴こゆる、そんな夏の名残を纏った葉月の中秋に、老齢の男がひとり、薄を分けて歩く姿があった。
民家とてないこんな野の原に一体誰を訪ねるのか、男は片手に酒の瓶を持っている。遅い歩みながらも迷うことなく進んでいた男は、貝殻細工のような薄い白い月が、わずかばかり開けた土の上にさしかかるあたりで立ち止まった。
おぅい、と、薄野原に向かって声を掛ける。
すると、月に照らされた花穂の影から、ひとりの女が立ち現れた。

長い長い黒髪した、美しい、それは美しい女である。こんな野の原の最中にあって、女は汚れひとつない公家風の小袿に緋袴つけて、薄絹の被衣を両の手にかざしている。透ける紗の縁から見えるその女の目は、緋袴の色に劣らぬ鮮やかな赤であった。
女は人ならざる紅の目を細め莞爾と微笑むと、被衣で覆った口元から真綿のような聲を発した。

あらあら、これはこれは。
お珍しいお客様だこと、とんとご無沙汰でございましたなあ。
あんまりお顔を見ないので、どこかでとうにおっ死んでいらっしゃるものと思うところでおざりましたよ。

そんな顔をするなって?
どんな顔をしていると仰せで?
淋しくなんぞございませんでしたよ。

機嫌直しの手土産? ああ、ご酒でございますか。
そりゃァ賢明でございますね、妾(わし)の出す酒は、ほれそこの、緑色した沼の水やもしれませんからねえ。ふふふ。
まァ、それ、そこにお座りになって。

女が示す場所にはいつの間にやら緋毛氈が敷かれ、漆塗りの折敷が置かれていた。女が月を映す黒漆の盆の上に手をかざすと、返した掌には赤い硝子を切子にした盃が現れる。細い手首を透かす夏の袿がさらさらと鳴る。

今宵の身装?
なァに、御前の足音と匂いがしましたから、御前のお好みに合わせたまでのこと。むくつけき男の姿より、この方が宜しうございましょう? それとも目許涼けき美しい青年か、幼き童女の方が御意に適うてございましたか?
まァ、相変わらずお世辞がお上手で。御前のそのお口は一体どこからそんな言葉を汲んでいらせられるのやら。

会うたび違う顔貌と仰せになる?
御前、物忘れが酷うなられましたなあ、この姿でお会いするのは三度目でございますよ。ああ、召し物は違うておりますが。こんな綺麗な秋月の晩には、古の上臈の衣も風雅で宜しうございましょう? ほれ、この袿などは紗で出来ておりますから、よく肌を紗して……
ああ全く御前は揶揄い甲斐のないお人でおざりますなあ、そう何でも彼でも面白がられちゃァ、こちらは興醒めというもの。真に昔からお変わりない。

ようございますよ、こんな佳い月、佳い風の夜、まずはせっかくお持ち頂いたご酒でも一献頂戴いたしましょう。

おおこれは馨しい、天の甘露、高天原に生う生命の木、蜜の果実の雫の如。
夜の高殿におわしゃる孤高の女神、常蛾様にも一献捧げ奉る。

女はそう言うと、盃の酒を天へと撒いた。小さな珠雫が月の光を返して水晶のように瞬く。男は空いた盃に再び酒を注ぐ。馨しい吟醸の香が薄の原を潤す。女は細い指で男の盃に天露を返した。

妾の姿でございますか?
なんとまあ懐かしい話を持ち出される。そうそう、最初にお会いしたときは、確かに妾も童子の姿でございましたな。あれはもう何十年前のことでございましょう。
お育ちのよさそうな坊が一人で山野など歩いていたものだから、ついつい揶揄ってみたくなったのでございますよ。同じ年頃の人間の子供の振りして近づいて、驚かせて泣かせてやろうと思うておったに、その坊ときたらすっかり面白がって笑うばかり。しかも帰りたくないと駄々こねる始末。
ましてやその童がまさか翌日も、それから何度も、何年も何十年も、わざわざこんなところまで来るとは思いもよりませなんだがなァ。
ああ、こんな昔の話をするのは お互い歳を取った証拠でございますねえ。

御前こそ、最初にお会いしたときは、まだ膝小僧出した童だったじゃあございませんか。桜色の頬した顔から、夏の若緑のような映え出ずる盛りを過ぎて、すっかり穣りも豊かにご立派になられたと思うたら、もうお頭に雪が降って、ヒトの季節の移り変わりというものは真に速うございますねえ。

わしはとうに時間に置き去られてしもうて、何十年か百年か…え?おまえさんはいつまでも変わらず美しい? およしになってくださいましな。褒めたところで妾から出ゆるは所詮木っ葉、まやかしのみにござりますよ。

ええ、いいえ、御前はちぃとも変わってなぞおられませんよ。出会った頃と全く変わらぬ、やんちゃな少年のまま。好奇心が旺盛で、人の話なんぞなァんにも聞いておられなくって、ちょっと目を離すと何処へでも飛んで行ってしまわれる。
そういえばあのときも、ほれ、西の沢に見慣れぬ色の透ける魚がおったと、小滝の脇の小さな崖を下って……脚を滑らせて落ちたと思うたら、戯画のように折れ枝にひっかかっておられて……こちらは心底肝を冷やしたというに、御前ときたら面白かったもう一回やるなどと上機嫌で。魚は魚で水に流れた絹を見間違うただけだし、真にまァ……

え? 何ですか、急に話が変わって……

ああ、以前に話していらした物書きの先生のことでおざりますか。相変わらずお気に入りでいらせられるご様子。足腰弱って山野の歩みがきつぅなったとはいえ、長の付き合いというに、近年沙汰も減って侘しさをかこつのこの身からすると、妬けるお話でありいすなあ。

……自分が死んだらその青年が酒を持って伝えに来るだろうからよろしく?
厭ですよ、御前、縁起でもない。
だいたい御前は殺したって死にゃァしませんよ。
そうそう、猫も百年生きれば化生となると申します、いっそ御前もそのまま化物になって、妾と一緒に此処で面白おかしく楽しく過ごすってのは如何でおざりますか?

は? それもよい?
全くこのお方は……
ええ、ええ、御前なら、此岸にあろうと彼岸へ渡ろうと極楽蜻蛉にかわりなし、何処へ行っても楽しくやれましょうよ。

ああ、もうお帰りでございますか?
夜風もだいぶん冷たくなって参りましたしね、ご老体には障りましょう。ホホ、では次は燗のご酒でもご用意しておきましょうねえ。今度は晩秋の月の晩にでも…え?

はァ、最後に訊きたいことがある? 最後ってなァなんですか、全く。え? 改まって急にまた…はいはい、何でございましょう?
ずっとずっと気になっていた? 勿体つけずに疾くお言いなさいまし。

え? 妾が本当は男か女かどっちかって?

ふふ、ああ、そう、そういうことでございますか。
……何なら御前、今から直に確かめてみなさるか?

ふ、ふふふふ、ほほほほ。
ああ、御前のそんな狼狽したお顔は初めて見ましたよ。
長の付き合い、あれやこれやと幾度化かしても驚いてさえもらえませなんだが、今宵此処に至って漸う少しばかり溜飲が下がりました。

え? それで結局どっちなのかって?

……自分の本当の姿など、とうの昔に忘れてしまいいした。

=了=